みくに龍翔館ホームページ
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みくに龍翔館を訪れる方のほとんどが、その外観の奇抜さに驚かれます。何故、北陸の海辺の街にこのデザインなのか?もっともな感想だと思います。白亜で八角形,5階は銅板葺きのドーム状になっているデザインはまことに異様です。洋風のような、アジア風な、中華風な複雑なデザインです。
実はこの外観の原形、明治時代に三国を訪れたオランダ人のデザインに拠るものです。

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そのオランダ人の名は、ジョージ・アルノルド・エッセル(George Arnold Escher)。日本ではゲ・ア・エッセルと呼ばれました。エッセルは1843年にハーグに生まれました。日本でいえば天保14年。王立アカデミーのちのデルフト工科大学に学び土木技師となります。
明治6年(1873)30歳のときに、日本政府のお雇い外国人として来日。淀川水系の調査を手始めに、鳥取県千代川、東京都江戸川、千葉県利根川、新潟県信濃川、山形県最上川、赤川などで改修工事の指導、設計に当たりました。
明治9年(1876)5月にエッセルは三国湊へ到着しました。当時、三国湊は九頭竜川の上流から運ばれる土砂が河口に堆積して船舶が入港できない状態にあり、港民はその窮状を政府に訴えていました。そこで派遣されたのがエッセルでした。
エッセルは九頭竜川を綿密に調査した結果、九頭竜川の河口銚子口で、右岸の三国湊側にはオランダ独特の水利技術である粗朶沈床工法を用いた弧形の突堤を、左岸の新保浦にはT字水制を築く計画を立てました。この方法の意味するところは、銚子口を極端に狭めることで、日本海へ排出する水流の勢いが増して(ジェット理論)、その水流の強さを利用して土砂を排出するというものでした。
この突堤は、同じオランダ人工師デ・レイケの監督指導により、明治11年(1878)5月に着工、明治15年(1882)11月に一応の完成をみました。
100数十年を経た今日でも十分に機能していること、オランダ独特の粗朶沈床工法を用いた日本最初の工事であることが評価されて、平成15年(2001)12月に国の重要文化財に指定されました。

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そのエッセルが三国に滞在した当時、三国湊は空前の繁栄期にあり、港民はシンボルとなる小学校建設を計画していました。文明開化の風潮の中で、港民はエッセルに新しい小学校のデザインを依頼して、明治12年(1979)川沿いの高台経が岡に完成したのが、木造五層八角形という日本人には想像もつかないユニークなデザインの龍翔小学校でした。名付け親は旧福井藩主松平春嶽。当時の日本では5階建ての木造建築は大変珍しく、港民は大いに自慢し誇りとしました。この龍翔小学校は、35年間風雪に耐えてきましたが、倒壊寸前の大正3年(1914)に取り壊されています。

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エッセルは母の帰国願いに応えて、明治11年(1878)6月にオランダへ帰国しました。オランダに帰ったエッセルは水政省に復職し、技監にまで昇進して明治41年(1908)に退職、オランダ王国獅子十字勲章を授与されています。
 エッセルがオランダ帰国後も、三国湊の突堤の工事に関して、デ・レイケはエッセルに手紙を書いて耕工事の進捗や工法などについて相談を重ねていました。エッセルは退官後に、人生を振り返って回想録を綴っていますが、その中の第2巻、日本での記録でも、三国湊に関する記述量は突出して多く、それだけ印象に残った工事であったことが偲べます。

エッセルは長生きをして昭和14年(1939)96歳、ハーグで亡くなりました。こうしたエッセルの履歴は、みくに龍翔館の開館に合わせてオランダ大使館を通じて調査して判明しました。そのきっかけは、昭和56年前後に世界的に人気が沸騰したモーリッツ.コルネリス.エッシャー(Maurits Cornelis Escher)と関係があるのではと調べたことでした。関係は大有りで、M.C.エッシャーはG.A.エッセルの後妻の子どもで5男にあたりました。エッシャーの作品の中に92歳のエッセルを描いた版画も見つかりました。 エッセルは日本から帰国するときに錦絵などの日本の風物を持ち帰りました。そんな日本土産にエッシャーは影響を受けたのでは推測されています。もしも父のエッセルが日本に来ていなかったら、エッシャーは誕生しなかったかもしれません。

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